世界に一つだけの花
花が好きな私の母の誕生日と母の日には、毎年妻から母に花のプレゼントをしてくれています。
古希の時には母の好きな紫色の胡蝶蘭をプレゼントしてくれ、一人暮らしの母は毎日の水やり等花に愛情持ってしっかり育て、また来年花を咲かせる事を楽しみにしていました。
2022年12月3日で70歳になった母は、71歳で定年を迎えその後はゆっくりしながら子供達3人の家族達と旅行に行くのを一番楽しみにしていました。
71歳になっても72歳になっても当たり前に元気で、77歳の喜寿を迎えるものと思っていました。
が、母の身体に病が発覚したのが2023年の8月18日のこの時→生存率
それからの母は見事なものでした。
自分の病気と向き合い一回も弱音を吐くことなく戦う覚悟を決め、私達も本人の意思を一番尊重し、家族として支える覚悟を決め、田原家皆でスクラムを組んで今日迄やってきました。
病院と実家の往復も何十回もしたし、毎日母の所にマッサージをしに行き、安否確認がてら昔の事から最近の話迄色んな会話を楽しむ時間を持てました。
が、これ以上の積極的治療が難しいと3月26日に緩和ケア移行の為自宅に帰り、このまま自宅で好きな事をしながら段々とその時を迎えるものと思っていました。
毎日マッサージに行き様子を見ていたので、異常を感じ病院に逆戻りしたのが3月28日。
僅か2日で病院に逆戻りするとは夢にも思っていませんでした。
急遽病院受診し溜まった腹水を抜き、元気を取り戻した母はその日のうちに自宅に帰宅し、帰りに買って帰った弁当も半分程食べたので、私も安心して自宅に帰宅しました。
病気事態はもう治らない!が、こうやって在宅で腹水を抜きながら適切な治療を受けながらその時を迎えると思うと、辛い気持ちは勿論あったけど最後まで母が納得のいくよう元気と笑顔で送りだそうと決めていました。
私がプロボクサー時代毎回10㎏ぐらいの減量でヘトヘトの状態だった時、勝っても負けても試合後に母が作ってくれるオムライスが私の一番のご馳走でした。
『あんたがしよる事は応援するけど、実の息子が殴られている所は見きらんわ。』
と、一度も私がボクシングをしている所を見に来る事がなかった母ですが、私の大好物のオムライスを試合後に用意してくれていた所が、実に母らしい応援の仕方だなと感じていました。
『人生最後の食事はあんたが作ったオムライスを食べたい。』
と、言っていた母が、私が作ったオムライスを口にしたのが3月30日で、2口程度が精一杯で、その瞬間母の最期が迫っている事を感じました。
訪問マッサージ業を始めて7年目となり、今迄色んな患者様の最期を見てきました。
私には何となくその時が分かるようになったのは悲しい職業病ですかね。
姉兄には皆後悔の無い行動を!!と言い続け、姉も仕事の休みをもらい、兄も調整して母を看取る覚悟を決め、その時がやってきました。
兄から母の状態が悪化していてその時が近付いていると電話をもらったのが4月9日の朝8時半頃で、その時はまだ朝1番目の自費マッサージの患者様宅に向かう前だったので、皆さんに連絡をして許可をもらい、急いで実家に到着した時には母が苦しそうな息づかいで私が到着するのを待ってくれているようでした。
私は到着するなり、『かちゃお今来たよ。何も心配いらんし、もう頑張らんでいいよ。』
と、声を掛け母の足のマッサージを始めました。
母が喜んでくれていたマッサージ。
下の世話をするようになるぐらいレベルが低下してからは、母は『早く逝きたい。このまま気持ち良く逝きたい。』
と、言っていたので、せめて私のマッサージを受けながら気持ち良く逝ってもらうのが私のせめてものはなむけと思い、咄嗟にとった行動でした。
涙が止まらないけど手は止めず、母に声を掛けながら姉、兄が見守る中、私が到着した3分後ぐらいに母は息を引き取りました。
『私の墓はこうして。葬式はこうやって。』
と、生前中しっかり意志を聞き準備を進めていたので、突然の事ながら姉兄3人で分担してやってこれたので、火曜日に亡くなり水曜日にお通夜、木曜日に葬義告別式を無事終え、母の望む形で送り出す事が出来ました。
流石に亡くなったその日と葬儀の日は関係各所に連絡を取り、スライド出来る所はスライドしたり、従業員に任せれる所は従業員にお願いして何とか乗り切りました。
昔から祭事で人間性が良く見れると言いますが、実の母が亡くなり19時から通夜の喪主が17時まで働くとか聞いた事ないですよね。
私は母の息子であると同時に一つの会社を経営する経営者なので、私達のサービスを待っている方にいつも通り笑顔と元気をお届けするのが仕事であり、今日この瞬間に私の助けを必要としている従業員の声を後回しにせず、従業員の生活を守るのが最大の仕事です。
私達の仕事は病気を治す事はできませんが、その方に寄り添える素敵な仕事だと誇りを持って言えます。
母と言う花は散りましたが、母の意志は私達子供にしっかり受け継がれ、またその子供達にもしっかり受け継いでおります。
母が生まれ育った北九州市若松区で母は眠り、樹木葬で土に帰りまた桜が咲く頃にはまた母を思い出すかと思います。
花は咲いた瞬間から散る迄、どれだけ長く咲き続けるかではなく、どれだけその期間を鮮やかに咲くのかを私達に見せてくれている様な気がします。
小さい花や大きな花一つとして同じものはないけど、母に恥じない私もオンリーワンな人生を送ろうと改めて誓いました。
本人の希望に寄り添い、孫に書いてもらったデザインを墓石に掘り、どうぞ安らかに眠って下さい。
あなたの事やけ俺ら兄弟が幸せに暮らしているか上から見守ってくれている事でしょう。
あなたに恥じない生き方をし、私達なりの花を咲かせます。
あなたの子供に産まれて本当に幸せでした。
今迄姉兄3人を育ててくれてありがとうございました。
鍼灸訪問マッサージ心蓮 田原淳紫
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